【その14】「目的」と「方法」
人の行為には「目的」と「方法」があります。例えば、「話す」という行為は、「考えをコトバに置き換えて発声する」という「方法」をとりますが、その「目的」は「考えを誰かに伝えるため」です。一般に、
「何のために……」が「目的」であり、
「どのように……」が「方法」であるといえます。ただし、人がすべての行為において、常にその「目的」と「方法」の関係を意識しているか、といえばそうではありません。「呼吸をする」「睡眠をとる」といった、生存に欠かせない本能的な行為・行動はいちいち「目的」など考えず、無意識の内に行われているのが普通でしょう。
「親が子を育てる」という行為は本来極めて本能的なものです。人間に限らず、犬であっても、猫であっても、親は子供が生命を自分の力で維持して行くための
「必要最低限」の体力と技能を得られるよう、無意識の内に育てます。ノラ猫の行動を観察していても、親猫による授乳の時期が過ぎると、子猫がちゃんとジャンプして虫などを捕食できるよう、親猫は必ず近くで見守っています。「そこまでは親の責任だ!」と自覚しているかのように、子猫の技能がある一定の水準に達するまでは、じっと見守っています。しかし、彼らの子育てはそこまでです。その後は驚くほど速やかに
「親離れ」「子離れ」します。極端な言い方をすれば、最低限の体力とスキルを身につけた後は、その子猫が「生きようが死のうが」親猫は「われ関せず」なのです。彼らの本能の領域には、子育ての「目的」と「方法」が「必要最低限」のレベルでインプットされているのでしょう。
人間の「子育て」は、本能のみの「必要最低限」で終わることはありません。生まれた子供が生存して行くために「必要最低限」の体力と技能を体得した後は、その子供がやがて「社会」という共同体の中で
他の人々と協調・協働して生活を営んで行けるよう、
有為な知識と技能を学ばせようとします。これが
「教育」の原点です。教育はさらに、その子供が人間として豊かな心を持ち、「人としての幸せ」を得られるよう、知識や技能以外の事柄も学ばせるという
高次の「目的」と「方法」を持っています。
スカウト運動は、この人間の「教育」という営みのひとつのかたちです。その「目的」は、子供たちが将来、社会という荒海の中をしっかりと生き抜いて行けるよう体力と技能を身につけさせるとともに、
「真に幸せな人生」を送ることができるよう、
「心を育てる」ことにあります。ロープを結ぶことも、ナイフを使うことも、仲間とともに大自然の中で体験するキャンプもハイキングも、楽しく「ゲーム化」されたあらゆるスカウトプログラムは、この
「目的」を目指す特徴的な「方法」のひとつに過ぎません。
近年テレビを賑わせるニュースは何れも、本来の「目的」を置き去りにして、効率のよい「方法」を開発することのみが「成功の近道」とされて来た社会の歪みを写しています。私たちスカウト運動に携わる成人は、常に
「何のための・誰のためのスカウティングか?」という「目的」を意識して、よりよい
「方法」の実践躬行に努めたいものです。
(GL:たいま)
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